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部分と全体

自分の感情とか、気づいたこととか、
一般化しようとするとうまくいかない。
普通のことは、数がからんできて、始めて普通になる。
一人だったら特別でも、一億人なら普通になる。
おれひとりに、やってきたことばを、
こう、人に伝えるかごとくに、
普遍化しても、なんか変なのは、おれはひとりだからだ。
おれは一億人もいないしね。

だからと言って特別ーっていうのとも違う気もしてる。
本読んでても、共感することばっていうのはたくさんあるし。

ちゅーことは、自分の中に多数の自分がいるのかな。

その中のひとりが、あることばに共鳴してんのなか。

多数の自分の中のひとりの自分が、あることばを発しても、
多数の自分がすべてを納得するわけじゃないのかも。

そーかな。

仮に、多数の自分がいるとしても、いつも総動員してなんかやってる気がする。
知的な活動も、感動的なことも、別に切り換えてるわけじゃないし。

ことばを読むことが、知的な活動なら、そのことばに感動するのは
知的な活動の一部なの?
そうはいわないじゃん。

総括的な自分を把握していくためには、細分化していく作業が必要なのかな。

細分化されたパーツが、やたらと一人歩きしている世の中な気がするよ。

部屋のなかに、常に全体が意識されている、
もしくは全体を見ながら、細部を感じ取っていくような
注意深さを持っていないとまずいのかもね。

あー、そう考えるといままでのおれの追っかけてきたものっていうのは
なんなんだろう。

94/6/16
by oldyoung | 2005-04-23 11:40


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